「至峰」・・・修業時代
「至峰」さんは弟子入り 17歳・・・昭和21年5月24日
九度山から二つ目の紀伊清水駅に「師光」さんを訪ねたそうです。その時点で弟子が多く断れたそうですが何とかもう一人だけと言うことで弟子にしてもらい竿師の道が開けました。
毎朝五時頃の電車で通ってみたものの雑用の毎日、そのころ「師光」さん始めお弟子さん達は大変忙しく竿を作っていたそうです。
昭和21年は終戦直後で釣りなど出来ないとは思うのですが生きる為に魚を釣り食糧にしていたのですかね。
どんな時代か想像できませんが本当に厳しい時代を乗り越えて生きて来たのですね。
一時は42度の高熱から・・・
生きる為に働きそしてその日が終わりまた世が明ける・・・生きる為に目を覚ます。
現代も働くのは同じですが生きる環境は違っても時代時代で当然変わってきますが?
「至峰」さんは昭和23年の年明けに「師光」さんから「今年で年、明けるから」と親方に言われていたそうです。19歳で世の中へ船出。
急性肺炎を乗り越え一命を取戻しいよいよ竿師へ・・・無我夢中で製作した竿を「師光」さん曰く・・・良くできていると。でも銘がなくては売りづらいことから以前使っていた焼印「光作」を頂いたそうです。これが最初の「銘」・・・
二年半毎日生地組の「手伝いをしながら、独立した時は、あんな調子での竿を造りたいと描いていたそうです。
それが現在でも貫き通した・・・「至峰」調子。
「至峰」調子とは当時は殆どの竿が胴調子でしたが先調子で生地組し改良を加えたそうです。
最初は18尺を50本作って問屋さんで買ってもらったそうです・・・信じられません。問屋のオーナーが竿を見て奥の方に行き数人を連れて「この子、初めて竿を作ったんや、お前ら良く見とけ」・・・と褒めて頂いたそうです。
売れれば良い時代でも良いものを作る姿勢が手に取るように分かります。
それが何と・・・「光作」のコピー竿が世の中に・・・偽物が。